鈴木孝夫先生と平田オリザ先生の対談本『下山の時代を生きる』(2017)を読んでいます。非常におもしろく痛快な対談で、こちらも熱量高く読み進めております。

ちょうど英語学の講義の中で「主観的把握」と「客観的把握」について扱う予定があるのですが、本を読み進める中で、たまたまそのテーマとリンクする話題があったので書き留めておきたいと思います。

多々良ほか(掲載年)による事態把握の説明によれば、主観的把握とは、話者が(実際にはその場に身を置いていなくても)事態の中に自らを置き、当事者として体験的に事態を捉える見方です。一方で客観的把握とは、話者が(たとえ実際の事態の中に身を置いていても)その外に立ち、傍観者や観察者として俯瞰するように事態を捉える見方を指します。そして、こうした事態の把握の仕方は言語文化によって異なると主張されています。

たとえば、「ここはどこ(Where am I?)」や「富士山が見える(I can see Mt. Fuji.)」という表現が分かりやすい例です。日本語では、自分の目で見ているからこそ自らの存在があえて言語化されないなど、主観的把握を志向する傾向があります。これに対して英語では、自分自身をも客観的に捉えて言語化するように、客観的把握を志向する傾向があると指摘されています。

また、俳句をめぐる例も非常に興味深いものでした。もし「古池や 蛙飛び込む 水の音」という俳句を “The ancient pond / A frog leaps in / The sound of the water” と直訳した場合、英語話者は「So what?(だから何?)」と反応するだろうという指摘です。私たち日本語話者であれば、古池のまわりの静寂の中で、蛙が飛び込む音までを自分事として楽しむような体験的な解釈をします。

この点について、鈴木・平田(2017)では次のように語られています。「俳句とか短歌とか、世界で最も短い詩の形式をぼくらは持っていて、『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺』と言っただけで、ほとんどの人間が多くの斑鳩の里の風景を思い浮かべることができる。これはまさにハイコンテクストな社会なわけです」や、「ヨーロッパ人が気づかなかった『人間中心ではない』ものの見方が俳句で学べる」とまで述べられています。

さらに、対談の中では絵画や宗教画についても触れられており、「ヨーロッパでは、人物や神、天使が主で、風景は添え物です。…ところが日本人は、中国の影響もあって山水画といって風景だけ、人間がいないものが芸術になる…」といった指摘がなされていました。


参考
鈴木孝夫・平田オリザ (2017). 『下山の時代を生きる』(平凡社新書 841) 平凡社.
多々良直弘・松井真人・八木橋宏勇 (2022). 『実例で学ぶ英語学入門:異文化コミュニケーションのための日英対照研究』 朝倉書店.

Keywords
事態把握